私が初めて行った自身による主催公演は2001年11月に中野のテルプシコールで行った「とどのまつり」というソロ舞踏公演です。初舞台そのものは北辰の会(主宰:大竹宥熈)の元、1999年11月テルプシコールで舞踏公演「土赤龍」にて踏ませていただいたのですが、その半年後2000年4月には「テルプシコール舞踏新人シリーズ」という劇場企画に申し込みソロ公演を行うという我ながら大胆な出だしを経て早々にソロ活動をはじめました。近所の公民館の一室を借りて模索しながら稽古を行っておりましたが、一年に一度くらいは公演を行わなければなぁと感じておりました。元々美術作家志望だった私は美大卒業後、制作・発表の活動をしていたのですが、まぁ当然ながら当時は作品で収益を出すという発想などあるはずもなく花屋のアルバイトでお金を貯めて画廊を借り個展を行うといった活動を一年に一回を目標としていたのでそれがそのまま公演にスライドしたようなものだったのかもしれません。
若さゆえの不器用・バイトの休みが言い出せず
大竹氏のもと、デビューしたのが11月だったので自分の中では11月が最もおどりにふさわしい時期のような気がして、勇気を出してテルプシコールの秦さんに連絡をし11月14日水曜日をおさえました。今にして思うとなんでまた水曜日という「ど平日」に一年に一度行うか行わないかの大切な公演の開催を行うことにしたのか理解に苦しみますが、当時の私にとっては理由は単純で、アルバイトで勤めていた花屋の定休日が水曜日だったので休みを言い出さなくて済むからです。花屋といっても園芸がメインのお店だったので何気に11月は繁忙期で土日に休みをいただくことはかなりハードルが高く、周りに迷惑をかけるよりはと思ったのでしょう。本当に今考えると一年に一度バイトの休みをとることがそこまで心理的に負担がかかったのだなぁと思いますが、経験値の浅い若さゆえの不器用さだったのかなと…。
兎にも角にも公演まであと2ヶ月半のタイミングで決定したのでバタバタです。主催公演なので照明などテクニカルも自分で手配する必要があり、苦手すぎてとても器用にこなせるわけないと思いましたが、新人シリーズの時に照明プランを作ってくれてお世話になった舞踏の照明の第一人者である故相川正明氏に大胆にもお願いし快諾いただきました。しかも今にして思うと相場よりかなり安いギャラでお願いしてしまい若さゆえの不器用さもたまには功を奏したのかなと思います。音響は自らカセットテープで制作し即興によるギター生演奏を併用するという、おそらくあまり他の人はやらないであろう構想だったのでクリア。作品については普段から考えていることなのでタイトルもすぐに決まりました。当時買ったばかりの「i book クラムシェル」を駆使し、無料のPhotoshop LEを使ってチラシを作成、おそらくDTPでチラシを作ったのはこの時が初めてだったような…。個展の活動をしていたのでDMを送るリストもそのまま利用しかなり発送もしました。
→初めてMacで公演のチラシづくり:デザイナー未満の舞踏公演チラシづくり/切り貼りから初めてのMac無料のPhotoshop
自らの主催なので予約も全部自分で受けました。当時はスマホもなくてE-メールが使えるか使えないかくらい、予約は主に電話(携帯電話ではなく家の電話)で受けていましたが、お互いにとってもハードルが高いのでDMを発送する場合は持参すると前売り価格になる「当日精算券」を同封するのが一般的でした。だから当日蓋を開けて見るまでは何人いらっしゃるか読めないことも多かったのです。テルプシコールは一応小劇場の部類に入るそこそこのキャパがあり埋まらないとちょっとコワイのですが、公演当日は水曜日のど平日の夜であるにも関わらず数十人のお客様がいらしてなんとか客席を埋めることができました。中でもありがたいことに美大の同窓で教員になった友達が同僚を連れて5人ほどで来てくれて一体何か起こったのかと思ったら、11月14日は「埼玉県民の日」で埼玉県の教員である彼らは全員お休みで観に来ることになったとのこと!
その公演「とどのまつり」が2001年のこと、気づいたら11月14日で20年が経ちましたが今でも11月14日が「埼玉県民の日」であることは忘れられません。
→「とどのまつり」について:とどのまつりはとどのつまりではない/舞踏公演「とどのまつり」は祭りなのか?