舞踏靑龍會の稽古場は九州のいわゆる鄙と呼ばれる立地にあり、わざわざそこへ行こうとしないと行くことはない立地ではあるのですが、それでもそこへ集まるという人たちのエネルギーを感じる場です。福岡の中心地天神にある西鉄福岡(天神)駅より約小一時間、急行と各駅を乗り継ぎ「端間」という駅に降り立つといきなりひらけた空と外輪の山々(典型的な広い盆地)、そして土手を登り大きな川にかかる立派な橋を渡るのです。その橋を渡るときに鉄道が通り過ぎるのが見えて、向こう岸の車道の立派な橋に車が連なっている様子が見えたりするのですがそういう風景が自分の中ではおどりそのものというよりはまぁ表現活動というかそういうものの動機のようなものであったと思います。もともと自然は好きで特に植物には意匠的にも生き様としても、とても魅力を感じ積極的に関わってきたわけですが、おどりのことを考えたときに親近性を感じるのはいわゆる貴重な自然とか、天然記念物とか、世界遺産とかそういったものではなく、ごくごく日常のすぐ隣にある見慣れた風景であったり閑散としたようなものなのかなと思います。
ごくありふれた風景の中にも深くとけいって凝視をしていくとふと別の次元にトリップしていってしまいそうな時があって、そういったちょっとした森羅万象のツブサを拾い上げることがおどりをつくっていくのかもしれません。だから私は、舞踏靑龍會の稽古場にいくときはそういう橋の上の自分とかあるいはそれプラス向こうの橋とかいろんな風景を交錯させてトリップをしてしまうことでおどりへの扉をあけているのかもしれません。
その日はよしおの「花の冠」のCDをつかっておどったのですが、その楽曲にもよしおの森羅万象へのいとしみというかそれプラス情念みたいなものがあって深く関わるがゆえにヒリヒリすることもあるそういった痛みを痛みと気がつかずにまた懸命に関わっていくという世界観に浸っていました。その日の稽古はよしお本人もいたのですが、おそらく私がその世界に浸っていることとは気が付いていないことと思います。